江戸時代の高麗橋は、幕府管轄の12公儀橋の中でもとりわけ格調高く、江戸の日本橋、京都の三条大橋と並ぶ天下の三名橋と言われました。大阪城と船場を結ぶ重要な橋で、西詰には橋を渡る人を役人が監視する櫓屋敷や、幕府の御触書を掲示する高札場がありました。明治9年(一八七六)、東詰に、主要な街道の距離計算の起点となる里程元標が置かれました。ここは京街道、中国街道、紀州街道など西日本の街道の起点でした。
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投稿日:2016/11/09 更新日:
江戸時代の高麗橋は、幕府管轄の12公儀橋の中でもとりわけ格調高く、江戸の日本橋、京都の三条大橋と並ぶ天下の三名橋と言われました。大阪城と船場を結ぶ重要な橋で、西詰には橋を渡る人を役人が監視する櫓屋敷や、幕府の御触書を掲示する高札場がありました。明治9年(一八七六)、東詰に、主要な街道の距離計算の起点となる里程元標が置かれました。ここは京街道、中国街道、紀州街道など西日本の街道の起点でした。
淀屋屋敷跡→懐徳堂跡→適塾→少彦名神社→旧小西家住宅→里程元標跡→釣鐘屋敷跡→八軒家船着場跡