天満橋と天神橋の間の大川南岸は、平安末期から、熊野詣の上陸地点として賑わいました。伏見から船で下ってきた人々は、ここから始まる熊野街道の陸路を進んでいきました。近世に入ってからは、豊臣秀吉や江戸期の河村瑞賢によって京・大阪間の水運が整備され、水陸交通の要所となりました。川に沿って八軒の船宿があり、この地名になったと言われています。当時、三十石船が伏見との間を行き来しました。
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投稿日:2016/11/09 更新日:
天満橋と天神橋の間の大川南岸は、平安末期から、熊野詣の上陸地点として賑わいました。伏見から船で下ってきた人々は、ここから始まる熊野街道の陸路を進んでいきました。近世に入ってからは、豊臣秀吉や江戸期の河村瑞賢によって京・大阪間の水運が整備され、水陸交通の要所となりました。川に沿って八軒の船宿があり、この地名になったと言われています。当時、三十石船が伏見との間を行き来しました。
淀屋屋敷跡→懐徳堂跡→適塾→少彦名神社→旧小西家住宅→里程元標跡→釣鐘屋敷跡→八軒家船着場跡