秀吉時代の天守は今の配水池のところにありましたが、徳川幕府により現在の位置に再築されました。秀吉の天守は高さ約40mでしたが、徳川氏は幕府の威信を示そうと、高さ約58mの大天守を建築。現在の天守閣より高いものでしたが、わずか39年後の寛文5年(一六六五)に落雷で焼失。現在の天守閣は、昭和6年(一九三一)、豊臣大阪城の天守を「大阪夏の陣図屏風」などの資料をもとに再建したものです。
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秀吉時代の天守は今の配水池のところにありましたが、徳川幕府により現在の位置に再築されました。秀吉の天守は高さ約40mでしたが、徳川氏は幕府の威信を示そうと、高さ約58mの大天守を建築。現在の天守閣より高いものでしたが、わずか39年後の寛文5年(一六六五)に落雷で焼失。現在の天守閣は、昭和6年(一九三一)、豊臣大阪城の天守を「大阪夏の陣図屏風」などの資料をもとに再建したものです。
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