●大阪を代表する文人
織田作之助は、大正2年(一九一三)10月、生国魂神社の近くで生まれた。終生、大阪をこよなく愛し、出世作『夫婦善哉』をはじめ、大阪の庶民の暮らしを描いた名作を多く残した。
昭和22年(一九四七)1月、読売新聞に『土曜夫人』を連載中、喀血し中断。肺結核のために東京の病院で、惜しくも34歳の若さで世を去った。
行き暮れて ここが思案の 善哉かな
碑は、法善寺横丁の賑わいの中で静かに佇んでいる。
●碑に込められた思い
文学碑建立の発起人は、作之助と親交のあった作家・藤沢桓夫(ふじさわたけお)らである。昭和38年(一九六三)1月の17回忌の際、「大阪の生んだ昭和文壇の鬼才のために、何か残るものを……」と建立が決まった。
碑文は「彼の作品の中から、しゃれた言葉を刻めばいいのではないか」、石の形は「やせて背が高かった織田作之助に似たひょろりとした石を使うのはどうだろう」と話が進んだようである。
建てる場所も、織田作之助がよく通っていた関東煮の店である正弁丹吾(しょうべんたんご)亭の主人(当時)が喜んで提供。織田作之助の筆跡を刻み、同年10月に完成した。
堺筋線・千日前線「日本橋駅」
●近鉄線「近鉄難波駅」・「近鉄日本橋駅」