大正10年(1921)より昭和16年(1941)を施工期間とする大阪市の第1次都市計画事業は、都心部の過密状態を緩和し、高速鉄道と街路網を整備し、人口の分散を図るとともに、良好な都市環境を形成することを目的としたものであった。この中で最も重要な意味をもつ御堂筋の計画は大正8年(1919)に計画決定されたものであるが、この時の計画案には、「…種々の意味において本市最高の機能を達成すべき」ものであり、「永遠の必要」から考えて「大大阪の中心街路たるに恥じざる幅員と体裁とを具備」していなければならないと記されている。すなわち御堂筋は単に道路の建設に留まらない、”近代都市大阪の顔”を形成するという目的のもとに計画されたものであることがうかがえる。
御堂筋の建設は大正15年10月に開始されたが、財源難のうえに恐慌が重なり、また用地取得も順調に進まず、困難を極めた。
幅員24間(約43.6m)、梅田-難波間の約4kmを結ぶ御堂筋が完成したのは昭和12年(1937)5月であった。歩道、車道、緩行車線、緑地帯と整然と区画され、歩道と緑地帯には銀杏が植えられた。淀屋橋以北はプラタナスが植えられたが、現在では銀杏に植え替えられるなど変更が多い。街路照明は歩道と2列の植樹帯に設置されたが、歩道と車道のものが千鳥状になるようにされ、また電線は地下に埋設されるなど、景観に対する配慮がなされている。
このように御堂筋は大阪を代表する美しい街路であり、近代大阪の都市景観としてその重要性は極めて大きなものである。銀杏並木は御堂筋を象徴するものであり、大阪市民のみならず大阪を訪れる内外の人々に広く親しまれている。特に淀屋橋から難波にかけては、樹齢に至ったものについて新しく植え替えがなされるなど、並木道の景観は良好に維持されている。竣工時926本の銀杏が植えられていたが、現在も830本が残っている。
御堂筋の銀杏並木は、近代都市大阪を象徴する歴史的景観として貴重である。