●若き日の聖徳太子による創建
「鵲森宮」は、通称、森之宮神社とも呼ばれ、聖徳太子(しょうとくたいし)が建立した。
その創建は、四天王寺や法隆寺よりも古いとされている。崇峻(すしゅん)天皇2年(五八九)7月、物部守屋(もののべのもりや)との戦いに必勝を祈願し、勝った暁には四天王像をつくることを誓った太子は、その戦いに勝利し、まず、父母の用明(ようめい)天皇と穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后を祀った。その後、四天王像をつくり、この森に元四天王寺を建てたといわれている。このことから、「鵲森宮」は、古地図や古文献にも多数記されており、さらに、日本で唯一、用明天皇と穴穂部間人皇后を祀る神社として現在に至っている。
●「森之宮」と呼ばれる理由
『日本書記』によると、このあたりを難波の杜(もり)と呼んでいた推古(すいこ)天皇の時代、鉄鋼業の祖といわれている難波の吉士磐金(きしのいわかね)が、新羅国より帰国し、鵲(俗に朝鮮烏)2羽を献上した。その鵲をこの森で飼わせたことから「鵲の森」と呼ばれ、やがて「鵲森宮」という宮の名となり、略して「森之宮」というようになったという。
●戦火を免れた社殿
創建当時、「方八町にして神領神田広大」といわれるほどの社領があった。現在の城東区天王田(てんのうでん)や大東市御供田(ごくでん)はその名残だ。しかし、織田信長(おだのぶなが)の石山合戦の際、土地を略奪され、社殿も焼失した。幸い、御霊体は別所に奉安することを得たと伝えられている。現在の社殿は昭和初期に建設された。戦争当時、激しい空襲下にあったが、社殿は被害を受けず、今もその姿を残している。
【めでたい鳥、鵲】
中国には、鵲が翼を広げて天の川に橋を架け、織女を渡すという伝説がある。境内には、七夕ではなく冬の歌であるが、「鵲の 渡せる橋に置く霜の白きを見れば 夜ぞ更けにける」と、大伴家持が詠んだ歌碑がある。
▼鵲を詠んだ大伴家持(おおとものやかもち)の歌碑
●地下鉄中央線・長堀鶴見緑地線「森ノ宮駅」