●町人によってつくられた塾が誕生
享保9年(一七二四)、三宅石庵(みやけせきあん)と中井甃庵(なかいしゅうあん)を教授に迎え、5人の町人が出資して、町人のための私塾、懐徳堂を創設。教養としての学問ではなく、実用的な学問を教えた。朱子学を中心としながら、各派の説も取り入れる自由な学風は、大坂人に合っていたといわれている。2年後、甃庵らの奔走により、幕府から大坂学問所として公認された。なお、懐徳堂の名の由来は、『論語』、『詩経』、『書経』からとする諸説があり、推測の域を出ない。
●商売人本位の規則
武士が幅をきかせていた江戸時代にあっても、大坂では武士は人口の1割にも満たず、民主主義の精神があった。懐徳堂では、武士が教室の上座に座る習慣をなくして自由にした。貧しくても学ぶ意欲があれば講義に出席できるようにし、商人の都合に合わせて早退、遅刻もできた。当時は「商売」をさげすむ風潮が強かったが、懐徳堂では「商売」を評価し、何よりも大切な「人の道」を説いた。やがて全国でも有名な塾へと発展を遂げ、山片蟠桃(やまがたばんとう)はじめ多くの知識人を輩出した。
●受け継がれる懐徳堂精神
140年以上の歴史を築いた懐徳堂は明治2年(一八六九)、閉塾に追い込まれる。しかし、西村時彦(にしむらときつね)(「天声人語」の名付け親)が中心になり、財界の協力を得て大正5年(一九一六)、場所を移し再建された。碑は、もとの懐徳堂の地に建てられている。昭和20年(一九四五)、大阪空襲により懐徳堂は鉄筋3階建ての書庫を残して焼失した。蔵書3万6000冊は、すべて大阪大学に寄贈。懐徳堂文庫となり、現在も管理・研究が行われている。
【大坂学問所ここにあり!】
大正のはじめ頃、日本生命保険相互会社に「懐徳堂旧阯の碑」が設けられた。西村時彦が文章を選び、甃庵の玄孫(やしゃご)の中井天生(なかいてんせい)が筆をとった。
▼オフィス街に石碑のみ残る
●京阪電鉄「淀屋橋駅」