●大阪初の純洋式劇場
オッペケペー節で知られた川上音二郎(かわかみおとじろう)が、新しい演劇の拠点として明治43年(一九一〇)に建築したのが帝国座。大阪初の純洋式劇場で、花道やオーケストラ・ボックスも備わっていた。1000人を収容でき、『オセロ』『ベニスの商人』などを上演。帝国座の運営は完成当初から行き詰まり、やがて立ち行かなくなる。
その後、建物は進駐軍のチャペルとして使われた。昭和40年(一九六五)頃まで北浜教会として使われていたが、今はその場所に碑のみが残る。
●はちゃめちゃ人生川上音二郎
藩の御用商人であった音二郎の父は、遊芸が好きで家庭を顧みなかったという。母は学問好きで「父のようにならず、太閤秀吉のように立身出世をしなさい」と言い残して死んでしまう。音二郎14歳の時だった。その後、音二郎は船の積荷の陰に隠れて、東京へ行き着く。福沢諭吉(ふくざわゆきち)に見いだされ、慶応義塾の書生になったり、巡査、新聞記者、寄席芸人などさまざまな職業を転々とする。やがてオッペケペーで有名になり、演劇界の風雲児となる。
●演劇界に近代の風
音二郎は、自ら舞台に立って演劇界を刺激し続けた。「女優養成所」を設立するなど、革新的なシステムを確立。数々の批判を受けながらも、その演劇魂は民衆に大反響を呼んだ。
しかし、帝国座開場の翌年、旅先の舞台で発病。妻で女優の貞奴(さだやっこ)は、音二郎を病院から帝国座に運び込み、楽屋で臨終を迎えさせた。享年47歳。葬儀では、別れを惜しむ大阪市民が街を埋め尽くしたという。
★もっと深く知ろう!
【もっと知りたい川上音二郎】
音二郎は元治元年(1864)、福岡・博多生まれ、明治44年(1911)没。音二郎の舞台を観てファンになった、妻・貞奴は、日本初の女優といわれている。
◀明治を駆け抜けた演劇人
四つ橋線「肥後橋駅」
●京阪電鉄「淀屋橋駅」