8曲1双の中型屏風で、17世紀末頃の大阪を描いたものである。かなり横長の画面に、江戸時代” 天下の台所”、”水の都”としてにぎわった大阪のようすが、丁寧な描写と多彩な色調で描かれている。全体に伸びやかな明るい雰囲気が満ちている屏風である。
右隻は大阪の南部地域が大阪湾の上空からの目線で描かれている。向かって右から左、南から北方向へ風景が展開する。南端は住吉大社で、境内には廃仏毀釈の際に廃された神宮寺の新羅寺が描かれる。四天王寺では満開の桜の中を参詣の人々が歩いている。四天王寺のやや北(左側)には寛永年間(1624~43)に京都の清水寺から本尊を移したとされる舞台造の新清水寺がある。道頓堀までの間に広がる田圃では田起し、龍骨車による水入れ、田植えが行われている。田圃の東側(上方)には生国魂神社があり、境内には茶店、八掛見、人形芝居、三味線語りなどが描かれ、暑さのためか肩脱ぎしてくつろぐ人も見られる。道頓堀に沿っては芝居小屋が建ち、日本橋のたもとには高札が描かれる。
左隻は大阪の市中が、北方上空からの目線で描かれている。向かって右から左、西から東方向へ風景が展開する。西端は川口、大阪城が東端となる。土佐堀川には大名の川御座船や米俵を積んだ船、阿波の蜂須家の紋を付けた帆船、三十石船をはじめとし、さまざまな船が賑やかに行き交っている。西横堀、東横堀、長堀川、これらの川にかかる高麗橋、天神橋、天満橋、四つ橋など多くの橋が描かれている。東端の大阪城には天守閣がない。川と橋に囲まれた町中には武士、商人、石工などの職人、大名行列など実にさまざまな人々が描かれている。
右隻から左隻へ、春夏秋冬へと展開し、画面上の構成も優れている。
この屏風の時期は明確ではないが、右隻に描かれる整備された町並みは明暦年間(1655~58)に完成しており、これ以降に描かれたものであろう。また、大阪の陣後、寛永3年(1626)に再建完成した天守閣は、寛文5年(1665)に落雷で消失してしまうので、天守閣のない大阪城を描くこの屏風の上限は寛文5年(1665)となる。一方、人々の着物の様子、寛文小袖のような文様、延宝から元禄はじめ頃に流行した吉弥結びのような帯から、この屏風は大阪の町の基本的な形が出来上がった元禄期(1688~1704)に製作されたものと考えられる。
広い範囲で大阪の市中を描いた屏風はほとんどなく、本屏風は活気にあふれる大阪を克明に描いており、極めて貴重な作品である。