● 重厚で豪壮、町屋の長大な表屋造り。
堺筋沿いに、漆黒の木造で国の重要文化財に指定された大阪の貴重な建築がある。明治33年(一九〇〇)着工。315坪に間口26mの表屋(店棟)、3階建ての母屋(主住棟)、衣裳蔵、二階蔵、三階蔵が現存する。
工期に3年を要し、栂(つげ)の良材をふんだんに用いた。数寄屋風の趣を有し、付書院の欄間(らんま)の格子など、部屋ごとに斬新な細部の意匠がみられる。明治44年(一九一一)に堺筋拡張のため、西側間口4間が道路用地に供され、また関東大震災後に母屋3階が危険だとして取り壊された。
● 明治の商家の暮らしを今にみる
間口10間にずらりと格子戸を巡らした1階。2つの土間を通って台所へ。天井は湯気や煙を逃すよう工夫された高い吹き抜け設計。50人以上の食事を賄った大きな「へっつい」(かまど)や井戸は今もある。また、蔵と店の間には運搬用にトロッコのレールが敷かれていた。谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)の『春琴抄』に描かれる道修町の薬種商は、小西邸の屋敷、暮らしがモデルといわれていた。
● 進取の精神に富む初代と努力の2代目
安政3年(一八五六)、薬種業を始めた小西儀助(こにしぎすけ)。大阪で初めて民間で電話を設置した。
2代目・儀助は明治17年(一八八四)にアサヒビールの前身となる「アサヒ印ビール」を製造する。4年後には「赤門印葡萄酒」を製造販売。この頃の奉公人の中に、のちのサントリー創始者・鳥井信治郎(とりいしんじろう)がいた。
100年を超える歳月の間、従業員らが力を合わせて、たび重なる空襲と阪神・淡路大震災を乗り越え、現在は合成接着剤のメーカーとしてこの黒壁の館を守っている。
● 京阪電鉄 北浜駅