大村益次郎卿 殉難報国の碑

おおむらますじろうきょう じゅんなんほうこくのひ

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大村益次郎卿 殉難報国の碑

●才能をみがく
 本名、村田蔵六(むらたぞうろく)。文政7年(一八二四)、山口県に生まれる。幼い頃から冷静沈着で抜群に頭がよく、医師になるため23歳で大坂へ。緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾で学び、医学や蘭学、兵学に通じる。全国から秀才が集まる中、1年で適頭になるほどの人物だった。

●改革と保守
 慶応4年(一八六八)、彰義隊が上野にこもり、西郷隆盛(さいごうたかもり)らも攻めあぐねることがあった。益次郎は2000の兵を率いて囲み、たった1日で壊滅させている。この合戦で明治新政府は益次郎の才能を評価。翌年、陸海軍の総司令官に抜擢された益次郎は、近代陸軍兵制の確立と人材の養成に努力した。しかし、徴兵制度を実施することは武士の存在を否定することにもなるとして、士族を中心とする保守派の反感を買うことになる。同年9月、京都で神代直人(くましろなおと)ら攘夷派浪士に襲撃される。足に重傷を負ったが、京都では適切な治療を受けられず、浪華仮病院(のちの大阪大学医学部)に本人の希望で転院する。

●益次郎とイネ
 幕末期に日本の西洋医学の普及に貢献したオランダの医師、ボードインが当時浪華仮病院に招へいされており、彼の執刀で右足切断の手術を受けるが、敗血症を併発。明治2年(一八六九)11月、45歳でこの世を去った。最期を看取ったのは、シーボルトの娘・楠本イネ(くすもといね)。イネは日本で初めて西洋医学を学んだ女性であり、益次
郎からはオランダ語を学んだ。
 碑は昭和16年(一九四一)、浪華仮病院のあった当地(現・大阪医療センター)に建立された。
 なお、浪華仮病院が最初に開業したのは天王寺区の大福寺で、そこには「浪華仮病院跡」碑と、ボードインと院長・緒方惟準(洪庵の二男・これもり)の肖像をレリーフした記念碑が建っている。
 碑には、「兵部大輔大村益次郎卿」とある。

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所在地
中央区法円坂2丁目1番
交通機関
● 地下鉄谷町線/中央線 谷町四丁目駅
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