●「神農さん」と呼ばれるわけは
大阪・船場の道修町(どしょうまち)にある少彦名神社は、「神農(しんのう)さん」とも呼ばれ、親しまれている。江戸時代、薬種商は、中国医薬の祖とされる神農氏の像や掛軸を床の間に祀っていた。当時、薬といえば長崎から輸入される唐薬種(漢薬)で、薬の真偽、品質の見極めが難しかったからである。その後、和薬種(国産薬)の取扱量が増加。安永9年(一七八〇)、京都の五條天神宮から、わが国の薬の神様、少彦名命(すくなひこなのみこと)の分霊をお迎えし、以前から祀っていた神農氏と合祀した。これが少彦名命と神農氏、2人の神様がいらっしゃる理由である。
●道修町 ― 商売人が文化人
道修町は薬種会社が多く、薬祖講という会をつくり、役員40名で神社の運営にあたってきた。江戸時代からこのあたり一帯は、町の人たちが子弟や丁稚のためにお金を出し合って塾や学校をつくり、商売と勉学を両立させていた。いろいろな知識を吸収しなければ、商売ができなかったのである。大阪薬科大学、大阪大学薬学部もルーツは道修町である。
●神農さんのシンボル「張子の虎」
神社の入り口には、注連柱(しめばしら)があり、その横には金色の虎の像がある。文政5年(一八二二)、日本でコレラが大流行。道修町薬種商では疫病除薬として虎の頭骨を配合した「虎頭殺鬼雄黄円」という丸薬を無料で施した。そのとき張子の虎をつくり、丸薬とともに神前で祈願をし、病除祈願のお守りとしてあわせて施与された。以来、「張子の虎」は毎年、11月22・23日に行われる神農祭のシンボルとして名高くなり、大阪郷土玩具の一つに数えられている。戦前は、子どもたちが「おっさん、トラおくれんか」という声が祭りの風物詩となっていたが、戦後は参拝者が無病息災・家内安全を願って買い求め、祭典委員や巫女さんの手により授与されている。神農祭は、大阪の祭りが1月の「十日えびす」で始まり、神農祭で終わることから、「とめの祭り」とも呼ばれている。
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