●八百八橋の町奉行所
幕府の直轄地であった大坂には、大坂城京橋門外、西外堀西側に東西2つの奉行所が置かれ、1カ月交代で執務にあたっていた。奉行所の機構は、町奉行の下に家老・用人・取次、さらにその下に町与力・町同心となっており、事務は月番制。両町奉行の配下で実務を担当したのが、町与力30騎と町同心50人だった。享保9年(一七二四)の大火により、両町奉行所は焼失し、一時難波別院に移ることになる。
●市中の善悪を裁いた場所
難波別院に移ったのち、東町奉行所はまもなく元の場所に再建された。敷地は広大で、門前は広場になっていた。表門を入って右が当番所、正面が玄関。敷地の北側が役所エリアで、江戸時代の法廷・白州(しらす)はこちらにあった。南側はおもに居宅エリアであったようだ。
大坂には名奉行といわれた人は少ないが、3代東町奉行・石丸定次(いしまるさだつぐ)は大岡越前(おおおかえちぜん)以上の奉行であったらしく、彼は講釈噺の人情奉行ではなく、積極的な政策推進者であった。裁きを受けた罪人は、東横堀川を船で現在の難波・千日前あたりにあった刑場へ運ばれ、刑が執行された。
●与力・同心が奔走する
西町奉行所は難波別院に移ったのち、代官所と塩味噌小屋のあった本町橋東詰(現在地)に移転した。近くには牢屋敷などもあったらしい。牢番は市中の髪結床が務めていた。明治に入ると、大阪鎮台営所(軍司令部)、大阪裁判所として使用されたが、すぐに初代・大阪府庁として、奉行所の建物がそのまま使われた。
今では、マイドームおおさかなど近代的なビルが立ち並び、当時を偲ばせるものは石碑のみ。
★もっと深く知ろう!
【東町奉行所は有名人が多数輩出】
天保の大飢饉で困窮した民衆を見かねて幕府に反乱を起こした大塩平八郎(おおしおへいはちろう)が、東町奉行所の与力だったことは有名である。落語「佐々木裁き」に登場する佐々木信濃守(ささきしなのかみ)も実在の人物。
←成正寺(北区末広町)にある、平八郎親子の墓
●京阪電鉄「天満橋駅」
西町 ●地下鉄堺筋線・中央線「堺筋本町駅」
谷町線・中央線「谷町四丁目駅」