難波宮跡

なにわのみやあと

次の言語でも読めます: English

投稿日:

難波宮跡

●日本のシュリーマンが見つけた都
 難波宮の存在が確認されたのは、昭和29年(一九五四)に始まった発掘調査によってである。ここに難波宮があることを確信した山根徳太郎(やまねとくたろう)・元大阪市立大学教授は、所在が疑問視されていた学会の風潮の中、発掘に取りかかった。
 そしてついに昭和36年(一九六一)に、難波宮の中心部である大極殿を発見する。それはまるでドイツ人のシュリーマンが、ギリシア神話の伝説の都トロイを見つけたのに似ている。共通するのは、古代の都を見つけ出した情熱である。

●前期と後期、それぞれの難波宮
 発見されたのは、前期と後期2種類の難波宮。前期は正式には難波長柄豊碕宮(なにわのながらとよさきのみや)といい、大化の改新後に孝徳(こうとく)天皇が移り住んだ都だった。天皇(大王)の居所である内裏と重要な政務・儀式をとり行う朝堂院、および東西に配された官衙(かんが・役所)からなる。すべて掘立柱の形式で建てられ、瓦は一切使われていない。
 後期の難波宮も、前期と同じく内裏と朝堂院を中心とする。大極殿と朝堂は凝灰岩で覆われた基壇の上に礎石を置いて建てられ、瓦が葺かれた。この宮殿は奈良時代に聖武(しょうむ)天皇の遷都によって、一時期に首都となった。
 さらには、前期難波宮以前の遺跡も発見され、瀬戸内海に面したこの地が古代から重要な場所だったことがわかっている。

●公園に吹きわたる時代の風
 難波宮跡の公園には当時の遺構が復元されているが、何といっても壮大な大極殿の台が目立っている。大極殿は後期難波宮の中心の建物。丹塗(にぬり)の柱と白壁で飾り、内部には政治や儀式のときに天皇が出御する、高御座(たかみくら)が設置されていた。
 ところでこの難波宮、今ではもう調査されていないのだろうか。「いえ、毎年少しずつ発掘を行っています。まだまだ難波宮には不明なことも多い。いつかは全貌を解明したいものです」(大阪市文化財協会難波宮事務所談)

★もっと深く知ろう!
【難波宮は2つある】
赤いレンガの所は前期難波宮 の復元箇所。灰色の所は後期 の復元。前期と後期の時代差 はおよそ80年。古代の歴史を 感じながら歩いてみよう。

▲前期と後期がきれいに色分けされている

現在地からルート検索
所在地
大阪市中央区法円坂1-6
交通機関
● 地下鉄谷町線・中央線「谷町四丁目駅」
     中央線・長堀鶴見緑地線「森ノ宮駅」
● JR環状線「森ノ宮駅」
施設情報
問合せ先:06-6943-6836 (難波宮跡調査事務所)
この記事は役に立ちましたか?
役に立った 役に立たなかった
10 人中 10 人がこの 記事 は役に立ったと言っています。
同じエリアにこんなスポットがあります!
豊國神社
豊國神社

●やはり秀吉は大阪城が似合う  豊臣秀吉(とよとみひでよし)、秀頼(ひでより)、秀長(ひでなが)を祀る神社。京都の豊國神社の別社として、明治12年(1879)に中之島に創建されたのが始まりである。昭和 …

大坂橋

●大阪城を眺める絶好のポイント 大正14年(一九二五)、東横堀川の土砂を掘削する際、川底から「大坂橋 天正拾三年」(一五八五)の名が刻まれた擬宝珠(ぎぼし)が見つかった。大阪城天守閣に保存され、市民に …

重要文化財「愛珠幼稚園」

 大阪市立愛珠幼稚園の創立は明治13年(1880)、創設者は、船場北部(現中央区平野町以北)の連合町会です。  園舎は、最初、現在の北浜4丁目(大阪倶楽部北側)に建てられましたが、明治22年には連合町 …

天神橋
天神橋

●江戸時代、大坂随一の長橋  文禄3年(1594)に豊臣秀吉(とよとみひでよし)が架けたと伝えられ、当初は新橋と呼ばれていた。天満天神社が管理することから天神橋と呼ばれるようになったという。江戸時代は …

井原西鶴終焉の地

●辞世の句を刻んだ碑が建つ 元禄6年(一六九三)に死去した浮世草子作家・井原西鶴の没後300年を記念して建てられた。 辞世の句「浮世の月 見過ごしにけり 末二年」が刻まれている。