●勇壮なライオン像
難波橋の通称は「ライオン橋」。勇壮なライオン彫刻が四隅の親柱の上に配されている。この像は大正4年(1915)に完成した市電事業の一環として難波橋が架けられた際につくられた。中之島の水上公園の一部として設計されたとあって、石橋風の外観、公園のアプローチとなる階段、獅子像、市章である「みをつくし」を組み込んだ欄干、しゃれた橋上灯など、ほかの橋とは一線を画した装飾的な景観をもっている。
夭折した歌人坂田博義(さかたひろよし)は、この橋に哀愁を感じてこう詠んだ。
橋づめに 石の獅子立つ 難波橋
今日かなしまず 吾れわたりゆく
●江戸時代の納涼スポット
江戸時代、難波橋は天神橋・天満橋とともに「浪花三大橋」と称され、大坂の八百八橋を代表する長大橋であった。当時、大川の川幅は現在よりも広く、難波橋は200メートルを超える木橋で、反りもあり、橋からの眺望は素晴らしかった。周囲の16橋や生駒山などの山々を見晴らすことができ、舟遊びや花見など絶好の行楽地として多くの人で賑わった。
特に夏場は、氷水、甘酒、ぜんざい、しるこなど、橋のたもとには夕涼み客目当ての茶店が軒を並べ、納涼目的の人々であふれかえっていたという。花火見物にも絶好の場所で、大坂の文人たちの詠んだ俳句にも、何度も難波橋の名前が出てくるほどの人気スポットだった。適塾を開いた緒方洪庵(おがたこうあん)も、難波橋の下に船を並べて歌会を催したという記録が残っている。
●難波橋、激動の変遷
一時期、難波橋が消失していたことがある。それは明治18年(1885)の大洪水の時である。明治初頭に鉄橋化した甲斐もなく、近辺の橋もすべて大破。数日間、船場から中之島へ渡る手段がなかった。その後、応急処置として難波橋の場所には船を並べて板を渡しただけの簡素な橋がつくられた。それが大正の市電事業により、現在の場所に整備されることになる。
なにわ名橋50選の一つ。
★もっと深く知ろう!
【ライオン像の秘密】
威容を誇るライオン像は、高さ3.5m、重さ約18トン。阿吽(あうん)形という神社の狛犬と同じ様式がとられている。
↓迫力あるライオン像
●京阪電鉄「北浜」駅